北枕で寝ている。このまま死んだら向きを変える手間が省ける。こう暑いと、ロクなことは考えない。




2000%9句(前日までの二句を含む)

July 1672000

 あらはなる脳うつくしき水着かな

                           高山れおな

小限の衣服とも呼ぶべき「ビキニ」。それを身につけた状態は「肌もあらはに」という言葉の領域をはるかに越えている。「これはもう裸といえる水着かな」(大野朱香)だとすれば、どんな具合に形容すればよいのだろうか。いささかの皮肉をまじえて、作者は「脳もあらはに」とやってみた。言い当てて妙と私は支持したいが、どうだろう。この水着について「最初の水爆が投下された三平方キロの小島が、ついに到達したぎりぎり最小限の衣服と同じくビキニという名であることは、充分考慮に値する。いささか不気味なウイットである」と書いたのは、ヘルマン・シュライバーというドイツ人だった(『羞恥心の文化史』関楠生訳)。彼によれば、ベルリンの内務省は1932年に次のような警告を発している。「女子が公開の場で水浴することを許されるのは、上半身の前面において胸と体を完全に覆い、両腕の下に密着し、両脚の端の部分を切り落とし、三角形の補布をあてた水着を着用する場合にかぎられる。水着の背のあきは、肩甲骨の下端を越えてはならない……いわゆる家族浴場においては、男子は水着(すなわちパンツと上の部分)を着用することを要する」。この警告からビキニの世界的な普及までには、三十年程度しかかからなかった。ビキニは、二十世紀文化を「脳もあらはに」象徴する記念碑的衣服の一つということになる。俳誌「豈」(32号・2000年5月)所載。(清水哲男)


July 1572000

 手花火の柳が好きでそれつきり

                           恩田侑布子

い片恋の思い出だろう。「柳が好きで」には、主語が二つある。そうでないと、句がきちんと成立しない。その人と手花火で遊ぶ機会があって、自分が好きな「柳」を、その人も好きなことを知ったのだ。もちろん心は弾んだが、しかし、その後は親しくつきあうこともなく、手花火の夜の「関係」は「それつきり」になってしまった。「手花火の柳」を見るたびに、ちらりとその夜のことを思い出す。でも、思い出すこともまた「それつきり」なのである。「手花火の柳」が束の間のうちにしだれて消えていくように、句も束の間の記憶を明滅させて、あっけなく「それつきり」と言いさして終わっている。このときに、もはや作者の心は濡れてはいない。むしろ、乾いている。絶妙の俳句的言語配置による効果とでも言うべきか。考えてみれば、ある程度の年齢を重ねた人の人生履歴は、まさに「それつきり」の関係でいっぱいだ。しかりしこうして、掲句の良さが読み取れない読者が存在するとすれば、それは読解力の欠如によるものではないだろう。読み取るには、いささか若すぎるというだけのことにすぎない。『イワンの馬鹿の恋』(2000)所収。(清水哲男)


July 1472000

 蛇搏ちし棒が昨日も今日もある

                           北野平八

に遭遇して、そこらへんに立て掛けてあった棒切れを引っ掴み、夢中で搏(う)った。その棒が、昨日も今日も同じところに立て掛けられている。目にするたびに、蛇を搏った感触がよみがえってきて、嫌な気分がする。捨ててしまえばよいものを、捨てられないわけでもあるのだろう。私も、何度か蛇を搏った経験があるので、この句の生臭さはよくわかる。マムシとハブ以外の蛇は無毒だというが、ニワトリを飼っている農家にとっては天敵だった。こいつに侵入されたが最後、何個でも呑み込まれてしまう。大切な現金収入の道が、その分だけ断たれてしまうのだ。だから、搏った。しかし生活のためとはいえ、殺生は嫌なものだ。いつまでも感触が手に残り、いまでも思い出す。こうやって書いているだけで、背中をつめたいものが走る。掲句は、そういうことを一息で、しかも静かに控えめに書き留めていて、さすがだと思わせる。北野平八は、いつも小さな声で静かに詠み、それでいて深く胸底にひびくようなことを言った。『北野平八句集』(1987)所収。(清水哲男)




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